ブリブリの日常的な感じ

日常の自分を綴る

久しぶりに現代詩手帖3月号購入

病院で待ってる間に読もうと思って現代詩手帖の3月号を購入した。

結論から言うと、そんなの読んでる気持ちにならなかった…

改めて家に帰ってゆっくり眺めてみると、しばらく自分がこの世から、取り残されていたことが分かった。

歴代の詩人は、みんな俺のじいさんや、ひいじいさんの年代だったのに、今の詩人は、俺の親の年代だ。
距離が縮まっているにかかわらず、考え方や様々なものが、自分に近いからこそ、肯定するのに難しい部分が、増えていることに気がついた。

詩をやめてから30年。
中学の頃から必死に雑誌に詩を応募して、二十歳過ぎた頃は同人誌のメンバーになり、細々と詩を発表してきた。
そして現代詩手帖には、何回も落選してきた(笑)

今の詩の世界には、盛んに詩とは何か問う世界と、誰かに理解してもらおうと思わず、自分の前衛性を表面に表そうとする世界とが、複雑に交錯しているような気がする。

いわばそれは、もしかしたら相反するものかもしれない。

今回の現代詩手帖の中で、詩と音楽の話が載っていたがその中でも、クラシックではシェーンベルク、ロックではイエスといったものを引き合いに出してる。

音楽は一つのものに固執してはいけない。
それが作曲家の必要とするものだと俺は信じているが、クラシック以外のロックやジャズが、勉強のためと無理に聞き入ってるわけでもない。

自分の体に溶け込んでくる音楽だから、それが良いのだし、楽しんで聞くことができる。

けれどこの現代詩手帖の中において、そうした音楽を取り上げて、背景がこうだと関連付けて、文章の展開を作ることが、果たして妥当なのかと疑念に思った。

全員がそれだけの知識を持っているとも思えないし、全員がそれらの音楽に興味を持つとも思えない。

悪い言葉で言えば、インテリの知識自慢ではないか?

知らないから聞いてみようという人も、ほとんどいないと思う。

ましてシェーンベルクの作品のグレの歌について取り上げていたが、それもこの曲は、シェーンベルクはもうすでに十二音音楽に入ってしばらくしてからの完成作品だから、歴史的な関係を考えれば、作曲当時と完成当時では、人間がまるで違う解釈になる。

ここで現代詩手帖の話をしても、仕方ないかもしれないが(笑)

ちょっとそんなことを思ったので、記録として残しておこうと書いてみた。