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高度な吹奏楽へのアレンジ作品 吹奏楽の話21

高度な吹奏楽へのアレンジ作品 吹奏楽の話21

前回、ダフニスとクロエの音楽を紹介したが、決してこうした難しい音楽に、果敢にトライする姿勢を非難しているわけではない。

ただこうした高度なクラシック作品を吹奏楽にリダクションすると言う意義が何なのか?
まだラヴェルストラヴィンスキー等の作品であるならば、旋律性もある程度汲み取れるが、現代音楽まで持ち出してきて、それを吹奏楽の、しかもコンクールの演目として、競うための音楽として、取り上げるのは、俺はいかがなものかと思っている。

前回も書いたが、優れた芸術性のある音楽を聴きたいのであれば、プロの楽団の音楽を聞けばいい。

とくに学生は、学業の合間に音楽をやり、その中で精一杯努力した結果が、自分たちの青春をかけた音楽としての、表現であるべきだと俺は思う。
そこに学生ならではの、アマチュアならではの感動があるのではないだろうか?

俺は長いこと音楽関係やってるので、そうした吹奏楽の指導者が、長時間学生に練習を強いているのも知っている。

その中でも、コンクール常連校の有名学校においては、オーディションと称して、学生同士でスタメンの席を競わせてる。
そんなことすれば、差別化されて、無謀にも心の豊かさまで、削り落とされていく。
そうしたやり方は、俺としてはあまり好ましいとは思えない。

俺の知り合いの指導者には、何度となく、希望を持って音楽をやれるように指導してくれと、言い続けてきたが、全く聞く耳を持ってくれないのも実情なのだ。

指導者自身が自分の実績を上げたい、自分の立場を保持したい、さもなくばクビになる人もいるわけで。学生においてもコンクールで演奏したいし、楽器運びや、裏方だけで終わる活動では、何か焦燥感に苛まれて、音楽を楽しむ心のゆとりなどは生まれては来ない。

コンクールと共に、吹奏楽のあらゆる面が発展してきたことは確かだが、競うだけのコンクールなどは、いらないのではないか…と、最近はそんな気持ちだ。


俺の尊敬する三善晃さんの「交響三章」が、吹奏楽版にアレンジされて、近郊の高等学校の演奏会で取り上げられたので、聴きに行ったことがある。

音楽自体は言うに及ばず、素晴らしいに決まってるが、演奏している学生が、果たしてこの音楽をどこまで理解しているのか?
甚だ疑問でならなかった。


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