俺が認める芸術家としての作曲家とは
ポールマッカートニーや桑田佳祐や松任谷由実など、美しくそして特徴的であって、しかも心を揺さぶる旋律を作ることができる、メロディーメーカーだと思う。
作曲家はその旋律(音楽的なコード等も含めて)を作曲して、それで終わってしまう場合があるが、確かにメロディーを作る才能は、ズバ抜けているのかもしれないが、それだけでは芸術にはならない。
だからこれらは手っ取り早く言うと、芸術とは別の世界の音楽として括り、ここではちょっと置いておく。
かねてから此処で言ってきたきたことだが、芸術となると、作る側だけではなくて、それを受け入れる側の責任もある。
要するに、ただ手放しで造り手が送ってくるもの、受け入れてそれで終わり…ということにはならない。
そもそも作品を理解するためには、自分も相当勉強しなきゃならないのが芸術。
私には音楽は分からないからとよく言う人がいるが、勉強もしていないのに、なんでそんなことが言えるのかなって思うけど。
ちなみにメロディーだけ作っている人でも、バックバンドやオーケストラに注文を出して、アレンジにも加わってる人も大勢いる。
あまり突っ込むと、批判を浴びるのでこの辺にしておく。
それでここからはあくまでも芸術の話だが、クラシック音楽を作曲する作曲家で特にオーケストラを作曲する人間は、旋律を作曲するだけではなく、膨大な知識を持ってオーケストラに挑む。
作曲について大きく分けて三つある。
1、旋律を作ること
2、形を作ること
3、技巧を凝らすこと
これらが全部出来なくてはまともな作曲家とは言えない。
まず旋律の話をすると、昨今の吹奏楽コンクールの課題曲などは、全然ダメではないが、飛び抜けて美しい旋律でもない。
俺の基準からすると、作曲家としてはギリギリだと思う。
聞く人間の好みにもよるから、メロディの良し悪しはそれぞれかも知れないが、しかし歴代の作曲家の作品で、今も歌い継がれている曲などは、多くの人が認める優れた旋律だと言える。
できるだけそういった、クオリティの高いものを作れる能力が必要ではあるが、しかしそこは才能なんだと思う。
次に形だか、いくら綺麗な旋律を作ったからといっても、それを音楽という形にまとめなければ、音楽として成立しない。
昔から作曲家はたくさんの形式を編み出してきた。
二部形式や三部形式、ソナタ形式やロンド形式など。
そういった基本的な形式を用いて、独自に作曲家が考えた形式で、作曲されている曲も多い。
最後の技巧のところだが、たった二文字のこの漢字が、実は最も重要な部分になる。
単に技巧と言っても、旋律的な技巧、和声的な技巧、先ほどの形式的な技巧、そして楽器の使い方による技巧等、様々な技巧が存在している。
それを並べたらきりがないし、部分的には主観によるものもあるから、ここは俺が思うひとつだけを書いておきたいと思う。
それはフーガを作曲できない作曲家は、作曲家としては認められないということ。
その作られたフーガの内容によって、その作曲家のグレードがわかると思う。
フーガを作曲できないという作曲家は論外。
作曲家でも何でもない。
フーガは古典的な形式に数えられてるが、しかし一番扱うのが難しく、あまりにも応用が広すぎる。
だからこそ、作曲家の実力がはっきりと現れるものだと思う。
あんまり言うと反感を買いそうなので、この辺でおしまい(笑)