ブリブリの日常的な感じ

日常の自分を綴る

音符が読めなくて何が悪い

音符が読めなくて何が悪い

掲題のセリフは、俺が音楽の話をここに書いたときに、おそらく心当たりにある人が反応して、コメントに文句を書いてきた。

この世の中は実力主義だとか言いながら、結局は就職も大卒じゃなきゃだめ、人に教えるのだったらそれなりの専門の勉強してきた人間じゃなきゃ信頼できないと、今でもこれからもそうなんだろう。

形式にとらわれる事はおかしな話だが、ただ基準がない以上はそうせざる得ないものがある。

それから逆に、ある人が自分は音楽ができるからと言うので教えてくださいと、その人に教えを乞う場合、もしその人が実は音符も読めませんと言ったらどうだろうか?
ほんとに音楽できんのかよ?って不審に思うと思う。

それは芸能人の格付けチェックを見たらわかるが、あれだけ舌のこえてる人たちが、安物のワインの方が、高級なものよりもおいしいと言う。
そうなってくるとこの人たちもあてにならないと、つい思っちゃうわけだ。
ゆえに、どんなに良い学校出たってダメなやつはダメ。

それで本題に入るけれど、どうしてこんなことが起きるかって言うと、それらは非常に曖昧な、個人が良ければそれで良いと言う、聞けばほぼ間違いのない錯覚しがちな意見が、安心の拠り所になって、悪く言えば逃げ道となって、似非専門家の常套手段となってる。

わかりやすく言えば、そう言っておけば誰も反論できないでしょう?ってことだ。

芸術から、料理から、個人が個人の感性で楽しむものは、自分がよければそれでいいでしょう?と片付けられて、それで終わってしまう事が多い。

音楽について言わせてもらえば、特にクラシック音楽は芸術だから、学問として奥が深いし、探求に終わりは無い。
音楽を作る側として、どのようなものが完成形も決まってないし、自分自身がどうしたら自分自身を満足させるような作品を作ることができるかってことも、またおそらく死ぬまで達成できない課題の1つになるんだろう。

そういう音楽だからこそ、理解できる人で理解できない人はいるわけで、それはどんな分野においても同じことで仕方ない。

でも自分は理解できる人間であり、他の人間に音楽の素晴らしさを紹介しているのであったら、もう少し勉強しろよと俺は言いたかった。

去年の終わりにも、音楽仲間とあったが、難しい音楽用語を使って話をしても、それが普通の会話であって、気を使わないで話ができるのは非常に楽だし楽しい。

これは専門家同士の話だから、そうなって当たり前だし、疑いもしていない。
車の専門家や、アニメの専門家や、映画の専門家…その世界でしか知らない言葉がたくさんあるわけで、そういったそれぞれの世界の中で、かなり深く突き詰めている部分もあり、それが本当の専門家であり、愛好家なんだと思う。

その人たちは、芸術家も含めて、無理やり勉強してそうなったわけではなく、もっと知りたいと言う気持ちから結果的に物知りになったわけだ。

もっと知りたいと言う気持ち…

クラシック音楽の愛好家だったら、音符ぐらい読めて当たり前だ…
俺がそう言ったのは、非常に単純なことで、音楽が好きだったら、その音楽はどんな構造で作られていて、どんな楽譜なんだろう?と疑問に思い、楽譜も当然好きなのが当たり前だと思う。

その根拠は俺が過去に付き合ってきた何十人もの音楽愛好家で、ただの1人も楽譜の読めなかったやつはいないから。

それを楽譜が読めないのに、自分は音楽愛好家だと言われても、ほんとなんですか?と疑いしかない。
音楽討議をしても、結局は私は私の感性でやってますから(自分がよければそれでいいでしょう?)と言う話になって終わる。

そういう人の話をよく聞いていると、例えばこの音楽の第二楽章はバイオリンの深い音が特徴で…そう話をしてたが、その部分はバイオリンではなくてビオラなんじゃないですかと?突っ込みたいところ。
スコアを読めていたらこんなことにはならないよね。

でも、何も知らない人がその人に教示されて、あーそうですかやっぱりバイオリンっていい音ですねなんて…間違ったことを覚えかねない。
何も音楽愛好家が作曲までしろとは言ってないけど、なにがしかの音楽の楽譜ぐらい写譜してみようと思わないかな?と感じる。
そうすればオーケストラの楽器ぐらいきちんと覚えられるだろう。

自分が愛好家で、いろいろなことを覚えたいとやってくる人に教えてあげるのだったら、ある程度の水準以上のものを教える側が持っていないとならない。

誤解ないように言っておきたいが、一般のクラシックファンを対象にしてるわけではない。
あくまで自分がある程度クラシック音楽を知っていると豪語している人間に限ってるので。

それで、あったかどうかもわからない作曲家の逸話だのを紹介してる人もそうだが、音楽は鳴っているそのものでしか無い。
作曲家が失恋したから、だからこんな悲しい旋律ができたとか、そういった出来事を鵜呑みにして、自分自身で解釈して楽しむのは結構だが、そんなことをさも事実かのように、他の人に広げるのはどうなのか?と思う。

そういったことがメインではなくて、あくまでも音楽のメインであり、逸話などは箸休め程度に書いてあげるのがいいんじゃないかなと思う。

詩でも音楽でも、感性だから、個人がそれを受け止めて楽しめればそれでいいと思うが、ただある程度そういった現実を理解する人は、それなりに自分自身も勉強しているものだ。
堂々巡りになってしまうが、その勉強では自分自身が無理にやっているわけではなく、知らない間に知識が積み重なっていってしまったと言うことなのかもしれない…