音楽の価値観 1 吹奏楽の話し9
ちょっと吹奏楽の話題とはずれてしまうが、音楽の価値観について、あくまで俺の視点から話をしたいと思う。
芸術全般について、特に音楽と、小説や詩などの、活字についての話になる。
例えばAとBという人がいた。両方ともに音楽通だったとする。
しかし、AはBよりも少し音楽に深く知識があった。
AとBはいっしょにコンサートにでかけて、その帰りに聞いた音楽の話になった。
その音楽はBにとってはむずかしく、理解できないのと、好みではなかった。
それで、AはBにちょっと聞いてみた。
A「B君、今日の音楽、どうだった?」
B「ちょっと俺の好みじゃなかった」と言った。
A「どんなとこが?」
B「どんなとこって…いろいろ」
A「そうか、俺はよかったな特にXXとかさ…」
B「あ、そう。まあ、音楽の感じ方は人それぞれだから」
話はそれで終わった。
だいたいの人はこの決め台詞を言って、強制終了となる。
俺は過去から様々な人間と音楽の話をしてきたが、まともにきちんと思うことを会話ができた人はほとんどいない。
ネットで知り合ってまともに会話してるって人は、大阪芸大出てナースやってるピアニストの友達くらい。
今付き合ってる高校の吹奏楽時代からの友達でさえ、専門的な話は避けようとする。
何も自分と同等の知識を求めてるわけではないが、話してる最中に、どうしてもそういう部分が出るのかも知れないが。
でも、だいたいの人は
音楽の感じ方は人それぞれだから…
詰まったらそれを必ず言う。
その言葉は、芸術に関しては、それぞれの感性だから、そんなの自由だろうって話で、さももっともそうな言葉であり発言だと思う。
でも、俺は違うと思う。
たとえば、ここに料理好きな人、食べ歩きが好きなグルメな人がたくさんいる。
そうじゃなくても、普通の主婦してて、毎日必ず料理に携わってる人がいる。
大勢の人が料理には精通してるわけだ。
音楽の話題じゃなく料理だったらどうだろうか?
あのお店で食べた定食おいしかったよな〜と話したとしたら、あれはまずかったよ…なんて答えたとする。
どんな所が美味しくなったの?って聞かれたら、たぶん、俺、人参とエビが苦手でさ〜とか。
もうちょっと薄味がよかったね、ちょっと醤油がきつすぎ〜とか…
少なくとも会話は広がって行く。
味覚は人それぞれだろ?なんて、トンチンカンな答えはしないでしょう。
物事に対して、どういう具合にその程度深く精通してるかで、そういう感覚の共有があっての、話しになるかも知れないが。
相手の方が、聞く耳を持ってるって認めたくないとか、そういうのはやたらあると思うが、だからと言って、感受性などの曖昧な言葉を使って、ごまかして終わるのは残念な限りだと思う。
芸術には、様々な曖昧な事が介在して共存してるが、だからといって、適当というわけではない。
俺は10代から30代まで詩を書いて、同人誌に発表したり、20代には、地域の短歌会に入って短歌もやった。
そういう中で、それぞれの作品を評価するのには、一定の技術と、その水準というものがある事を知った。
芸術は答えがないからといって、上手い下手は必ずあるし、その原因がどこにあるのか?というのもある程度その道を探求すれば、理解が深まって行く。
以前テレビ番組で、木梨憲武さんが熊川哲也さんとバレエをやる話になって、木梨さんが自分も芸術家だから、こんな踊りでいいんだと言い放ったシーンが有った。
その時に熊川さんが、「バレエはステージの前に額縁があって、その向こうで踊りが繰り広げられていて、一つ一つのシーンがみんな絵のように芸術になってる」と解説してた。
その後、「木梨さんの踊りも一つの芸術かもしれないが、それをどの程度のお客様が観たいと希望するのか?こちらの熊川さん達のバレエ)よりも観たいかと思うか?っていう所が大事です…」と、笑顔で言っていたのを思い出す。
答えがない芸術だからこそ、一定の水準が求められて、それ以上じゃなければ、特にお金を出しての鑑賞には値しないということ。
むずかしいところかも知れないが…
あくまでこれは俺の意見なので。
今日の吹奏楽曲は、和泉宏隆と真島俊夫さんを偲んで。
宝島(Takarajima)